2018年4月14日土曜日

おばさま方の罪と罰

以前とあるバスツアーに参加した時のこと、長い移動時間にも関わらず延々と話している老年女性のグループがいた。旅行なのだから楽しむことは結構だ。ただ、どうでもいい会話が絶えず耳に飛び込んでくるのは苦痛である。

会話の内容は日常系である。自分が何した、誰が何した。私の人生には何一つ影響を与えないであろう登場人物たち。彼らの生活が語られていくのだが、そこには山も落ちも意味もない。まるで日々の出来事全てを言葉にしているかのようだった。

ヤオイの全てが悪いとは言わない。私だって興味のある人に対しては、その人の生活や気持ちに耳を傾ける。ヤオイで結構。相手が話して楽しいのなら、私も楽しい。ただそれが長時間に渡ったらどうだろう。日々繰り返されたらどうだろう。きっと私はウンザリしてしまう。どんなに興味があった人でも「その話に何の意味があるの?」と言いかねない。

仕事において無駄を省く事は大事だが、プライベートはそうもいかない。なので彼女らを少しでも理解しようと試みた。

まず、その会話が楽しいのか?自分が学生の頃を振り返ると、そんな会話ばかりだった。共通の話題なら何でも良いのである。一緒にいる事が楽しいのだ。
内容が重複していないのか?これだけ話しているのだ、きっと前に聞いた話も多々あるだろう。それでも何故聞いてられるのか?それは恐らく、話している方も覚えてなければ、聞いてる方も覚えてないのである。私も聞き流す事は多いが、それでも要所要所は頭に残してしまう。それすらしないのが末長く楽しむ術なのだろう。
疲れないのか?これが最大の疑問だった。それだけ話していれば、全力で遊ぶ子供の様にパタリと寝るかと思いきや、そうではなかった。話せば話すほどエンドルフィンが分泌されるChatting Highとでも呼ぶ現象があるのだろうか?

こういう事を考えてしまう私は、やはり家庭を持たなくて正解だったと実感した。正確には「持てなかった」だけだけど。
また、こうして何も考えずに話せる人は、SNSを楽しめるのだろうとも感じた。何かを書けば「いいね」をもらえる。「いいね」をもらえるほど調子に乗る。
私は「いいね」の何割が真の「いいね」なのかを勘ぐってしまう。習慣的にしただけの「いいね」。「いいね」を返してもらう為の「いいね」。そんなものに価値を感じないし、楽しくもない。だからこうして、誰からも見られてないだろうブログやツイートが性に合っている。木の穴に向かって叫んでいるのが気楽なのだ。

ただ、何も考えずに話せたら楽しいだろうと思う。若かりし頃の様に、箸が転がるだけで楽しめるのだろうと思える。そうなるに、私はあまりに独りでいすぎた。偏屈ジジイになる未来しか、私には見えない。

0 件のコメント:

コメントを投稿